整形外科 リウマチ科

Akamatsu Orthopaedic Clinic

日本整形外科学会 整形外科専門医

日本リウマチ学会 リウマチ専門医

日本体育協会 公認スポーツドクター

整形外科の歴史

有史以前

世界各地に、各民族、文化に、それぞれ伝承されていた伝統的な医療の術(医術)がありました。戦いのあるところには、外傷に対する医術が発達しました。数万年前の人骨に骨折が治癒したものや、矢が刺さった痕が残るものが見つかっています。骨折をはじめ外傷の治療が古来から何らかの形で行われていたと考えられます。

それだけでなく、脊椎カリエス、関節結核、関節リウマチを患った人骨も見つかっていまして、骨関節の外傷や疾患は古代から人類の医術の対象になっていたと思われます。

このページの先頭へ

古代

ヒポクラテス Hippocrates 紀元前 450 年頃 - 357 年頃

ギリシャの医師。医学の父と呼ばれています。ヒポクラテスの時代に医療は呪術、魔術と決別し、科学への一歩を踏み出しました。骨折、脱臼、脊柱変形、先天性股関節脱臼など、この時代にはさまざまな骨関節疾患が知られていました。

医療技術は、さまざまな形で文献に記され、その中には、肩関節脱臼の整復法であるヒポクラテス法など、現代に伝わっているものがあります。

このページの先頭へ

中世

アンブロワズ・パレ Ambroise Pare 1510 年頃 ( 1517 ? ) - 1590 年

戦場での医学(軍陣医学)、外傷外科学の分野から、近代の外科学を基礎を築き発展させました。欧米で近代外科の先駆者と呼ばれ、整形外科の源流の一人として挙げられています。

「私が包帯し、神がこれを癒したまう Je le pansay et Dieu le guarist ( I treated him, but God healed him ) 」という有名な言葉を残しました。

当時のフランスの正規の教育を受けた医師ではなく、床屋外科医 ( barber surgeon ) と呼ばれる医術者でした。最初、床屋に弟子入りして外科の技術を学び、19 歳でパリのオテル・デュ病院で働いたそうです。当時、床屋は外科分野の医術 ( 様々な手術や外傷の処置 ) もしていました。

戦争に従軍し、開放創、銃創の軟膏による治療、結紮による止血法で外傷、切断肢の治療を行い、治療技術、成績を飛躍的に向上させました。血管結紮による止血法は以前よりあったらしいのですが、当時、切断肢断端の止血は焼灼法によっていました。パレは結紮による止血法を復活させ、広めたとされています。

パレが自らの著述を集大成したパレ全集は、本邦では外科書、外科全集などとも呼ばれています。これには骨折、脱臼の治療法のみならず、先天性股関節脱臼についても記述されています。

楢林鎮山はこれをもとに1706年、「紅夷外科宗伝」を著しました。

ニコラ・アンドリ Nicolas Andry 1658 - 1742

リヨン生まれのフランスの医師、パリ大学の医学教授 ( physician and professor of Medicine at the Royal College of Physicians at Paris )。欧米では整形外科の父 ( father または grand father ) と呼ばれています。医学全般にわたり活躍した、今でいう内科医 ( physician )。

この時代まで、子供はくる病 ( 骨軟化症 )、骨関節結核、骨髄炎、先天性股関節脱臼など、脊椎、下肢の変形を患う者が多く、肢体の変形を矯正する医療技術を書物に記しました。これが1741年に出版された " L'Orthopedie, ou l'art de preveniet de corriger dans les enfans, les difformites du corps ( 英語訳 Orthopedia: or the Art of Correcting and Preventing Deformities in Children by Such Means as May be Put into Practice by Parents Themselves and All Such as Are Employed in Educating Children. ) " で、アンドリがここで初めて orthopaedics ( 日本語で整形外科 ) という用語を作り出しました。

この書では、肢体の変形に対する治療は主として装具、器具によるものが記されていました。この時代には防腐法 ( 殺菌、消毒の技術 ) はなく、侵襲、規模の大きい手術は感染を合併して失敗することが常でした。また当時、床屋外科医 ( barber surgeon ) が外科治療に携わっていましたが、アンドリはこれを廃し、医師の管理下で外科医療がなされるような方針を取りました。

orthopaedics 整形外科
ギリシャ語の Orthos ( 英語 straight ) と Paidion または Paedios ( 英語 child ) を組み合わせたアンドリによる造語。
この本の表題には、小児期の変形を矯正し、かつ予防する学問、技術であり副題として父母および小児教育にたずさわるすべての人々のためにとあります。
さらに、Orthopedie ( 整形外科 ) は、成人の外傷後の四肢変形に対する治療を含むようになりました。
この書物に描かれた、整形外科を象徴する木の絵は、世界中の整形外科関連の学会、団体のシンボルとして用いられています。

アンドリが描いた木

アンドリが描いた整形外科のシンボル png 8KB

このページの先頭へ

近代の整形外科

ジョン・ハンター John Hunter 1728 - 1793

イギリスの外科医、外科の父と呼ばれています。数多くの屍体解剖と外科手術を通して、それまでの試行錯誤の時代の外科から科学的な外科学への道を開きました。

長管骨の成長は、その両端で伸びることを発見しました。

ジャンアンドレ・ヴェネル Jean-Andre Venel 1740 - 1791

スイスの医師。肢体の変形、障害の子供の治療のために、系統的に治療、義肢装具装着、教育、職業訓練を行うための施設を作りました。施設に長期間入所させ、スプリント ( 装具 ) を装着して少しずつ動かし、温泉、マッサージ、ストレッチ、牽引、徒手的な授動訓練や変形の矯正などでの治療を行いました。

18 世紀には、様々な外科手術が試みられるようになりましたが、まだ、防腐法と X 線が発見される前です。

四肢の変形に対し最初に外科手術による矯正を行った外科医として、フランスの Mathieu Delpech ( 1777 - 1832 ) は、1816 年に先天性内反足の子供をアキレス腱の切離手術と矯正装具の装着で治療しました。

Guillaume Dupuytren ( 1777 - 1835 ) は 1822 年、少女の斜傾の切腱術を行いました。

ジョゼフ・ロード・リスター Joseph Lord Lister 1827 - 1912

スコットランドの外科医。1876 年、防腐法 ( 殺菌法、消毒法 ) を開発し、外科手術、創傷治療での感染を激減させました。これにより、大規模な外科手術への可能性が広がりました。

ウィリアム・コンラッド・レントゲン William Konrad Roentgen 1845 - 1923

レントゲンが X 線を発見したのは 1895 年、手の骨の X 線写真の撮影に成功し、骨折、骨関節疾患、腫瘍などの診断が飛躍的に進歩しました。1901年、ノーベル賞を受けました。

ヒュー・オゥエン・トーマス Hugh Owen Thomas 1834 - 1891

イギリスの整形外科医、イギリス整形外科の父とも呼ばれます。骨接ぎの術者 ( bone setter ) の子弟でした。父親の骨接ぎの技術を骨関節外傷の医療に取り入れました。産業革命の頃、労働災害による外傷患者が激増し、イギリス、アメリカで広くこれらの患者の医療に貢献しました。股関節屈曲拘縮のトーマステスト、下肢骨折治療のトーマススプリントなどが知られています。

接骨業者の子弟故にイギリス外科医学界のメンバーには迎えられなかったといわれていますが、従兄弟のロバート・ジョーンズ ( Robert Jones ) により、トーマスの医療技術は後世に伝えられ、第一次世界大戦での軍陣医学の進歩に寄与しました。この頃、一般外科から整形外科が分かれました。

このページの先頭へ

19 世紀

1846 年、ボストンの歯科医、William Thomas Green Morton ( 1819 - 1868 ) が、エーテルを用い、はじめての全身麻酔に成功しました。

1867 年、フランスの外科医、Leopold Ollier ( 1830 - 1900 ) が、自家骨移植が生着することを発見しました。動物実験で数々の骨移植を試み、さらに、動物から人間への骨移植を試み、骨膜が骨形成に重要であることを確認し、金属性の釘を骨関節手術に用いました。また、皮弁手術を開発し、骨関節外科、再建外科の父と呼ばれています。

1879 年、イギリス、スコットランドの外科医、William Macewen ( 1848 - 1924 ) は、自家骨移植をはじめて臨床応用しました。リスターの防腐法を発展させ、滅菌できる術衣、覆い布、手術器具などを工夫し、数々の骨切り手術を行いました。脳外科手術を行い、脳神経外科の先駆者と呼ばれています。

この頃、様々な材料 ( 木や銀、銅などの金属 ) を用いて骨接合手術が試みられるようになってきましたが、1892 年、イギリスの外科医、William Arbuthnot Lane ( 1856 - 1938 ) が、鉄製のプレートとスクリューをはじめて用いて、骨折の内固定手術を行いました。また防腐法と無菌的手術に注意を払い、感染を激減させました。

このページの先頭へ

昔の日本の骨関節医術

世界各地の伝統的な医療の術 ( 医術 ) と同様、日本にも古来の様々な医術がありました。中世以降、外傷に対するもの、特に骨関節の外傷に対するものなどは、戦場での医術として武術を基にするものが生まれました。

日本の骨関節医術は「骨接ぎの術 ( 接骨術 ) 」として、施術者の個人技、さまざまな流派の骨接ぎの術として、徒弟制度のもとで伝承されてきました。武術とともに発達した接骨術、なかでも柔術家の手による接骨術が、柔術の各流派で伝承されました。

このページの先頭へ

近代日本の外科医療

1500 年代の半ば、蘭学としてオランダの医学が伝わり、西洋医学の外科学が日本の医術に取り入れられていくようになり、西流、栗崎流などのオランダ医学を取り入れた医術の流派が生まれました。外傷に対する医術、骨関節に関する医術にもオランダ医学が取り入れられました。

医者、骨接ぎの施術者の中には伝統的な接骨術を用いるもの、武術によるもの、中国の医術を取り入れるもの、西洋医学を取り入れるものなど、様々な医術者がいたようです。また、医者と接骨術者との違いも混沌としていました。

楢林流外科

元禄、徳川 5 代将軍綱吉の頃、楢林鎮山 ( 新五兵衛 1648 - 1711 ) は、オランダ医学の外科学を取り入れ、フランスの外科医、アンブロワズ・パレの著作「パレ全集」をもとに 1706 年、「紅夷外科宗伝」を著しました。

数百人の門弟を持ったといわれています。楢林家は、代々、楢林流蘭方医として知られました。

華岡流外科

オランダ医学の医者を父に持つ華岡青洲 ( 1760 - 1835 ) は、曼陀羅華(まんだらげ)の花を主成分とした薬草に麻酔効果があることを発見、全身麻酔薬「通仙散」を完成させ、1804 年、これによる全身麻酔での手術を初めて成功させました。乳癌手術をはじめ、数々の外科手術を行い、手術器具なども工夫、開発しました。日本古来の接骨術にオランダ医学の外傷学を取り入れました。

華岡青洲は、技術を秘伝とし、著作を残していません。弟子たちが、記録や絵図を残しています。華岡青洲整骨秘伝図、春林軒治術図識や、美濃の国(岐阜県)の医家、不破家に伝わる青洲の手術絵図教本等です。肩関節脱臼の整復法は、ヒポクラテス法やパレの外科全書の図と同じ方法も記されています。

その他、江戸時代の外科医術、骨関節医術の医者

高志鳳翼
骨継療治重宝記 ( 1746 年 ) 著作。中国古来の医術、オランダ医学の外科学、外傷学を学んだと伝わっています。
三浦楊心
三浦流柔術の祖、医者、接骨術を研究
吉原元棟
武術者、拳法と按摩術をもとに「正骨要訣」を著しました。
秋山四郎兵衛義時
楊心流柔術の祖、接骨術を考案。
吉雄耕牛 ( 1724 - 1800 )
長崎の医家。オランダ人医師から学び、吉雄流紅毛外科として外科に優れたと伝わっています。
二宮彦可
藩医の長男。中国医学を取り入れ、1807 年、「正骨範」を著しました。
各務文献 ( 1765 - 1829 ?、1754 - 1819 ? )
大阪の接骨医術者、蘭学医。1810 年「整骨新書」。

このページの先頭へ

明治以後の日本の骨関節疾患の医療

明治に入り、日本は政府の富国強兵政策に伴って、伝統的な術である医療を捨て、科学的な西洋医学、特にドイツの医学を取り入れることになりました。骨接ぎの術や怪我の手当ての法は、外科学にとってかわられました。

1874 年 ( 明治 7 年 )
医制に関する 76 条 ( 内務省所管 ) 制定。
1876 年 ( 明治 9 年 )
医術開業試験開始。医術を開業、営業するものはこの試験に合格しなければならなくなりました。日本の医療は、西洋医学 ( ドイツ医学 ) 中心の医学となりました。
1883 年 ( 明治 16 年 )
医師免許規則公布、医術開業試験規則の改正。これまでに存在した産科、眼科、整骨科などの専門医は医師に統合されました ( 歯科医は別 )。
1885 年 ( 明治 18 年 )
「入歯歯抜口中療治、整骨術営業者取締方 ( 内務省通達 ) 」
明治 16 年に行われた医術開業試験に合格したものでなければ、いかなる医業も新規に開業できなくなりました。従来の接骨業者は、既得権者としての「従前接骨業」として、医師とは別に、道府県庁の規則で取り扱われるようになりました。
1891 年 ( 明治 24 年 )
「東京府令第 58 号 + 入歯歯抜口中療治整骨営業者取締規則」
従前接骨業の業者 ( 古来からの骨接ぎ業者 ) は「接骨科」の営業を禁止され、骨接ぎ業者は激減しました。

このページの先頭へ

整形外科のはじまり

1906 年 ( 明治 39 年 )
東京帝国大学医学部に整形外科学講座開設
田代義徳教授が初代の教授に就任しました。田代教授が「之を束ね、これを支えそしてこれを正しうする」との意味で「整」という言葉を選び、また機能の正しいものは形も正しいとして、Orthopaedie の日本語として「整形外科」という言葉を造りました。
なお、田代教授が現した「整」の字は、右上の「攵」が「攴」でした。現在の日本整形外科学会雑誌の「整」の字も、それになっています。参考 : 日本医学会分科会機関誌一覧 - 日本整形外科学会雑誌
同年、京都帝国大学にも整形外科学講座が設置されました ( 松岡道治教授 )。
1909 年 ( 明治 42 年 )
九州帝国大学に整形外科学講座が設置されました ( 住田正雄教授 )。
1911 年 ( 明治 44 年 )
県立愛知病院 ( 後の名古屋帝国大学医学部付属病院 ) に診療科としての整形外科が設置されました。
1914 年 ( 大正 3 年 )
大審院判決「医術開業試験を経た者でなければ、接骨を業と成すことを得ず。」
1917 年 ( 大正 6 年 )
新潟医学専門学校 ( 現新潟大学医学部 ) に整形外科学講座開講 ( 本島一郎教授 )。
1920 年 ( 大正 9 年 )
内務省令「按摩術営業取締規則」の改正によって柔道整復術という名前で、従前の医師でない骨接ぎ業者に施術を認めることとなりました。「接骨術」「柔道接骨術」の名称は内務省より認められず、「柔道整復術」という名称になりました。
1925 年 ( 大正 14 年 )
北海道帝国大学付属病院で整形外科の診療を開始。
1926 年 ( 大正 15 年 )
社団法人日本整形外科学会設立。

法制度上は、明治 9 年から医師である接骨医 ( 後の整形外科医 ) が生まれ、従来の接骨業者と共存していましたが、骨接ぎの術に代表される日本古来の運動器に対する医術は、1891 年 ( 明治 24 年 )、日本の医療制度上は消滅しました。

江戸時代以降の日本の骨関節医術は、西洋医学 ( 蘭学 ) を取り入れて発展し、明治になってドイツ医学を主とした西洋の外科学、整形外科学が取り入れられたのです。日本の古来からの骨関節医術は、整形外科学に向けて発展的に解消されていったとも言えます。

明治期の整形外科医療に携わった医師達には、従来の接骨業者から転進した者、従来の接骨術を修得した者などもさまざまいたようです。整形外科医療のある部分には、従来の接骨術が残されていたと思われます ( 東京都足立区千住の名倉家が有名 )。

整形外科医以外のほとんどの方はご存知ないことと思いますが、整形外科の方が大正時代にスタートした柔道整復よりも歴史が古いのです。

整形外科の医学教育、卒後研修、専門医のトレーニングには、日本の伝統的な骨接ぎの術、柔術などは一切関係しません。

現在、柔道整復を行っているという施術者の一部には、日本古来の接骨術、特に柔術の技術としての接骨術を踏襲する者もいるといわれていますが、ほとんどは整形外科医学のさわり、整形外科の技術のごく一部を用いて施術を行っているようです。柔道整復師養成のカリキュラム、柔道整復師国家試験の内容を見てもそうです。

なお、現在の日本に接骨医はいません。

このページの先頭へ